2012年1月10日 (火)

2012年は国生みの地からスタート(番外編)

Imgp0126_472x640Imgp0188_474x640徳島のうだつの町並みを訪問で、さらなる自身の意識改革、固定観念の払拭が強まり、私と言うプランナーの新たなうだつを上げる決意ができた!
“うだつが上がらない”という言葉があるが、働いてお金を稼ぎ、家を建てる際に“うだつ”を備えた大きな家を建てろと言う戒めでもある。とは言うものの実際にはマンションの一室に住んでおり、“うだつ”は上がらないが、最近は3階までの階段で息があがる。しかし、最近の一戸建て家屋でも“うだつ”は、そう簡単には作れないし、構造上において作ることも減ってきている。その意味で威勢を張るような“うだつ”を観るのも楽しいわけだ。地元・奈良にあっては、橿原市の今井町、五條市の新町、宇陀市の大宇陀、そして大和郡山市内の城下町を歩いた際にも、幾つかのうだつを見つけたが、ここに“うだつ”があると主張し、また数え切れない数を見たのは、徳島での元旦だったと言える。東かがわ市での初詣を終えた午後、旅館に戻るまでの寄り道にて出かけたのが脇町うだつの町並みだ。

徳島にはこの脇町以外にも、「貞光町二層うだつの町並み」や「池田町うだつ通り」がある。今回は時間的に脇町だけしか出かけられなかったが、また近々に徳島県を訪問し、再度のフィールドワークを試みたいものだ。ここで少し“うだつ”を解説・・・もともと防火用の袖壁として造られたもので、やがて富や地位象徴となり各家が競うようになったという。現在、脇町には約50のうだつがあり、“うだつが上がらない”の語源はここから始まっている。まぁ、初詣で一年の繁栄と富を願ったことでもあり、実際に富が入れば“うだつ”を上げるという意味を自らが認識する上で、元旦での脇町レトロ散歩は意味があった。

Imgp0119_640x453徳島市内からは、徳島自動車道の徳島ICから走り、脇町ICで降り、国道193号線、県道12号鳴門池田線を走れば脇町うだつの町並みに到着する。江戸から明治時代にかけての建造物が多く、その意味で私が研究する近代産業遺産にも含まれる。元来は吉野川の水運を活かし藍商の集散地として栄えたのが脇町で、“うだつ”を上げた藍屋敷や町家が約400mに渡って建ち並ぶ南町通り界隈は、まるで時代劇のオープンセットを思わせる。もちろん“うだつ”以外にも、虫籠窓や格子戸などに往時の風情を感じる。まぁ、青空の下でセピア色の町並みを散策するほど気持ちのいいものはなく、タイムスリップしたようにプチ江戸の町人、プチ維新の志士になった気にもなる。大学時代には年間300本の映画を観ることを4年つづけたほどの映画好きで、その頭に映像として描く空想、妄想、想像力は自分を過去にも、未来にも、また異次元にも連れて行ってくれる。特に脇町はその時空間が広がり、記憶と記録がびんびんと伝わってきた。

Imgp0174_472x640Imgp0145_480x640Imgp0151_465x640そんな江戸・明治期の脇町の通りを歩くこと1時間。ただ表通りを垣間見ているだけでは面白くもなく、狭い通路、横道、裏道にも逸れつづけると、そこには古い家屋と共に、また新しい現代的な家屋も見られる。確かにこのような伝統的建造物を保存し続けることは並大抵ではなく、特に重要伝統的建造物群保存地区に指定されていればなおさらである。まぁ、屋根を葺くことも、壁を塗り替えるのも、すべてが高額であり、また行政に相談をすることとなり大変煩わしいことと言える。そんなことを思いつつ裏道を進んだところにて火事場を発見。もともとバイク屋なのか、また自動車の修理工場かとも思われる一階の作業場あたりが出火元のような火災のあった二階建て家屋を見つける。木造建てでもあり、一度火が付けば一気に火力が高まり、その周りの建造物に火の粉が飛ばないかと家人は冷や冷やだったに違いない。

007_640x480Imgp0205_640x466_2通りには何軒かの喫茶や土産物屋なども観られたが、京都の町家の連なる通りほどには、まだまだ開発の手が伸びておらず、保存と活用の両面での矛盾はあるものの、今後は商業用にも活用され、ある種の収益性・経済効果も見込む必要があると思えた。なんやかんやで通りを抜けて、柳がそよぐ大谷川沿いに洋館建ての芝居小屋を発見する。どこかで見かけた、その建物は、脇町劇場「オデオン座」で、昭和9年に建てられ、平成7年に閉館するも、山田洋次監督の映画「虹をつかむ男」の舞台になったのをきっかけに、昭和初期のレトロな雰囲気に修復された。場内は直径6mの廻り舞台や花道があり、また2階席もある劇場で、入場料200円で見学できるのだが、この元旦の日は営業がされていなかった。まさに近代産業遺産であり、シネマーケティング(映画を使った地域振興)として、どっこい活躍している姿はまばゆく映った次第である。

まさに4回に渡って紹介した年末年始の阿波・淡路島への旅行は、自身のイベントデビューの地・徳島に留まらず、淡路島(兵庫)・東かがわ市(香川)の3県をまたがり、例年になく穏やかで華やいだ正月を迎えたと言える。すでに4日から初仕事を皮切りに、2012年の意識改革、自身の固定観念の払拭、なによりも12年に及ぶ封印が解かれたことで、もはや昨年までの自分でないことを自覚するのである。まぁ、今までの私を知る方々には、この2012年型企画脳を持つプランナーにリセットした後の私と会えば、その意味、そのわけが一瞬でわかると思うが・・・(笑)

2012年1月 9日 (月)

2012年は国生みの地からスタート(後)

006_634x472年明けからの四国・淡路島の3社詣にて、この国の復興と繁栄を願い、また国生みの地で新たなパワーを全身に受けとめる2日間を過ごした!
2012年1月1日、初日の出が寝ている間に昇り、宿泊する旅館から車で国道11号線で一路、東かがわ市に向かう。海岸線をひた走り、10時30分を過ぎたあたりで、それまで他人事のように黙り込んでいたカーナビが指示を始める。その指示に従って、徐々に目的地に近付きつつあることを確認し、右折を繰り返しながら簡素な田舎町に踏み込むんだ感じで、時には対向車、時には初詣帰りの地域住民とすれ違い、ようやく目的地の白鳥神社に到着する。

この神社の歴史は古く、能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊(やまとたける)の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まったとされている。また、みどころとしては、境内に代々藩主が寄進した燈籠が所狭しと並び、『日本一低い山』とうたっている標高3.6mの「御山(みやま)」があり、白鳥神社では登山証明書も発行している。

Imgp0097_473x640Imgp0098_473x640この神社でもらった縁起物(福初穂)の添え書きには、「御祭神日本武尊をお祭りする白鳥神社に源義経が平氏との戦いで軍利を祈ったところ、彼方の空から白羽が彼の手中に舞い降り、屋島の浦のいくさに大勝した。以来、開運必勝の神様としてたてまつられている」とあった。ここでは、大和(奈良)から訪れた者として住所氏名を名乗り、我が国の復興と共に世界情勢の中で勝ち抜くことを一途に祈願する。あまり自身のことをお願いする神社でもないように清々しさをこの元旦に感じた次第である。しかし、境内の入口から参拝者が並び、その列に連なっての参拝も初めてであり、また地元の人々の中に交じって、いままでにない正月を迎えたような不思議な気分を味わっていた。

白鳥神社を後にし、少しナビの指示に従わずにとんでもない山道に入り込んだが、どうにかナビの指示によって次なる初詣の神社へと移動する。通常なら徳島の忌部神社あたりが初詣の筈が、知人の「混雑する」との助言で目的地を変え、白鳥神社の次は、これも大和(奈良)には聞きなれたご祭神である倭迹々日百襲姫尊(やまととひももそひめのみこと)を祀る“水主(みずし)神社”を訪問した。このご祭神の名前をどこかで聞いたことがあるだろう。そうそう、いつもよく行く桜井市の三輪神社(大神神社)に伝わる話にも登場する人物で、三輪山のご神体である巳(蛇の化身)となった大物主命(おおぬしのみこと)が毎夜訪ねて来ての逢引の挙句に、その正体を知って驚き、百襲姫がショックでしりもちをついた際に、不幸にも箸が陰部に突き刺さり、この世を去ると言う話がある。また、三輪山にほど近いところにある箸墓古墳こそが、倭迹々日百襲姫尊が葬られているとされる。さらに最近の古代史研究の成果により、卑弥呼の墓である可能性が高まっている。

Imgp0104_640x473Imgp0100_479x640どちらにしろ出雲の神(大国主命)と深く関わりを持つ大神神社(桜井市)ゆかりの倭迹々日百襲姫尊をご祭神とする水主神社(旧県社)は是非ともお参りしたいところであった。ここは三本松駅から与田川に沿って、南西に4㎞ほど進むと、道路左手に境内の入口が見える。大内ダムのそばにあり、まさに水主だと言える。また周囲には3つの山があり、熊野三山に見立てているそうだ。確かに社殿は、その熊野と酷似し、本殿の左右に熊野三社と国玉神社、本殿後方に孝霊神社があり、その四社後世になっている。通称、社(やしろ)さんと地元の人は呼ぶようだ。

家紋、神紋に関してはいたって興味があり、自身の研究テーマにしているが、この水主神社は“丸に社”、先の白鳥神社は“丸に白”である。この瀬戸内で活躍した水軍であった村上家は“丸に上”を旗印にしており、シンプルながらそのインパクトのある表記が気に入っている。さて話を水主神社に戻すが、ここには“天の磐船”があったり、辰砂(しんしゃ)なる赤い石や砂が含まれた岩を野外に展示していた。確かに東かがわ市は香川県となり、弘法大師(空海)の生まれ育った地とされ、弘法大師もここに訪れたと言う話も残っているよういだ。水銀である辰砂を求めて全国を行脚したとされる弘法大師の逸話は有名で、この水主神社にも大和(奈良)を空想させる「奈良街道」の山道と共に、水(銀)の主が祀られる神社の意味だとも想像した。特に神武東征において先陣となったニギハヤヒ等の伝説に、大阪府は交野市にある天の磐船伝説、並びに磐船神社もあり、この水主神社との関わりにも興味を持った次第である。

境内の隅々を見て回りたいのは山々ながら、初めて訪れて、予備知識もそんなにない中、あくまでも新年の祈願をする目的であり、詳しい記紀に残る古史との関わりに関しては次回の楽しみとして、また次なる目的地へと向かうことにした。その目的地は、江戸期・明治期の古い町並みであり、“うだつ”や“虫籠窓”“格子”の家々が並ぶ徳島県の脇町である。カーナビを再度セットしなおして、車を一路南下させながら脇町へと走らせる。走りながら、よくよく考えれば昼食時間をとうに過ぎており、13時を大きく過ぎたところだと気づく。昨日が、“徳島ラーメン”を食べたことで、今日の昼食は“讃岐うどん”を予定していた。幾つかの有名店を地図上にピックアップしておいたものの、その多くが存在する国道11号線をすでに外れ、県道12号線を車は走っていた。

Imgp0110_640x480途中、コンビニで水分補給をした後は、少し車内が温かいのと運転疲れから来る眠気を覚ましながら、元旦営業のうどん屋を見つけた。うどん屋と言うよりもうどんを含めた和食レストラン「うどん亭八幡」に飛び込んだ。ここを決めた決め手は、たまたま目に付いたということと、駐車場が大きい、そして看板にある店の紋(五三桐)に目が入ったからだ。朝から別に何も食べてないわけでもなく、竹ちくわやコンビニで買った菓子類などは食べてはいたが、ここはガツンと本場の讃岐うどんを食べようと思うのだが、よくよく考えれば旅館に戻れば、また夕食がまっており、少しばかり抑え気味に“わかめざるうどん”を注文する。待つこと10分程で、それぞれ注文した品が届き、写真にあるコシのあるうどんを食べ始めた。食べることにおいてラーメンとうどんを比較するのはどうかとも思うが、やはり好みとして、コシのあるうどんはやはり旨い。実際には、「得得うどん」「杵屋」等の関西方面でよく見かけるうどん屋では、三玉、四玉は余裕で食えるが、まぁ炭水化物であり、ダイエット的には注意をすべき大食漢である(笑)

ここで脇町にある“うだつの町並み”に関しては、また別なる機会で番外編として紹介するとして、2日目の旅館での一夜もすっ飛ばして、いよいよ1月2日の旅行最終日、その帰路の途中で瀬戸淡路鳴門自動車道を途中下車しての今回の旅行の最大目的である伊弉諾(いざなぎ)神宮へと出かけた。AM9時前に旅館を出発し、途中にお土産を売る物産センターに寄っった上で11時前には伊弉諾神宮に到着した。こんぼ時点ではなんとか駐車場に滑り込めたが、あと1時間、いや30分遅く訪れたなら、もはや駐車場に入る前に長い渋滞の中に置かれることだった。ラッキーにもすんなりと駐車場に入れて、まずは縁日が境内に溢れる初詣に出かける。今までの白鳥神社、水主神社は、それほど大きな神社ではなく、縁日らしきものは一切見当たらなかったが、やはり淡路島の一宮だけあって、ここの初詣の賑わいはたいそうなものと言える。もちろん神宮という格式も、またご祭神そのものの格もずば抜けており、何よりも天の沼矛で国土創世した男女二神を祀るところであり、伊勢神宮や出雲大社等と共に、一度は参りたい場所である。

Imgp0220_467x640_2Imgp0222_457x640_2Imgp0227_480x640今年は古事記撰上1300年の記念の年でもあり、その『古事記』や『日本書紀』に描かれた神話の中で、初の婚姻と国生みにて登場するのがアダムとイブではなく、伊弉諾命(イザナギノミコト)と伊弉冉命(イザナミノミコト)が天の沼矛でまだ漂っている状態の国土をかき回し、矛を引き上げた時、したたりおちたしずくがオノコロ島であったという『古事記』の一説は有名である。またオノコロ島に降り立った二神は、お互いの体の「なり余れる部分」と「なり合わざる部分」を合わせることによって、御子神をお生みになった、と言った性教育的な描写が描かれ、最初に生んだのが淡路島であり、次に四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、近畿地方の大八島が生まれたとある。では何故に淡路島が一番最初だったのかは、一説に神話時代の我が国を支配していたのが淡路島に住む人々か、その関係者であったからと言うのである。一方大八島(日本列島)の形成のされ方がどんどん朝鮮半島に近づいていることからして、異民族との関係を解く人もいるようだ。

「あ」と「わ」の島(結晶)だから、あわ島が最初に出来たのだと言える。「あ」とは「天」であり「開く」であり、「あなた」であって、伊弉諾命である。また「わ」とは「受」であり「和」であり「わたし」であって、伊弉冉命である。つまり、あなたとわたしが正しい順序で結ばれ、天地正順のエネルギーが凝結した結果できた島が、あわ島ということ。まぁ、鳴門の渦潮は、私に言わせれば天の沼矛で国土をかき回した際の遠心力が止まらず、今も渦を巻いていると説明すれば、本当にこの淡路島・阿波、鳴門が国生みのルーツに間違いないと思わされる。そして二神が生んだ様々な御子神(天照大神、素戔嗚等など)の全国の神宮、神社で祀られていることを知れば、国生みはまさに神々の里を意味し、淡路島にこそ、この日本の根源があると言える。まさに今、日本の大御親神(天照大神)が鎮座する伊勢神宮を東に崇め、その太陽が昇る地からすれば、この伊弉諾神宮は太陽が沈む西に位置する。この線(レイライン)を結ぶのが、一般に太陽の道と称する。

少々難しい日本神話を頭に描きながらも、年末年始の旅行の締めくくりの中で、やはり最後は縁日に目が行き、リンゴ飴、どて焼き、たこ焼き、阿波牛の串焼き、焼きそばなどをしこたま買い込んで、最寄りのテントの中で食した。まさに伊弉諾命と伊弉冉命が天の沼矛を使って国土をかき回すように、プシュッと栓を開いた際、玉が海面に落ちて、エネルギー(あわ)が吹き出すのを口で受け止めつつラムネを飲む。国生みの地、その一宮で私は焼きそばを頬張り、どて焼きを食いもってこの国の行く末を思い描くものであり、また新たな再生の力を願わずにはおかないのである。まだまだ、旅行中のハプニングやアクシデント、さらには楽しいサプライズも多く存在したが、毎度、毎度、長文では読む者も大変だし、書く者も大変である。なんとか今後は手短に、短文でのブログを心掛けたいと思う2012年の正月であった。

2012年1月 6日 (金)

2012年は国生みの地からスタート(中)

Imgp0057_640x480徳島・香川にある奈良(大和)・大阪(難波)との出会い。そして記紀にも登場する神話の神々や地名を捉えた神社への初詣へ、いざ出発である!
まだ12月31日、旅行の1日目である。徳島ラーメンを食べた後は、今年1年の穢れを祓いに、本当なら元旦初詣に行きたい大麻比古(おおあさひこ)神社へと移動。地元では“おおあさはん”と親しまれ、正月には30万人を超える初詣客でにぎわう神社だ。確かに車で県道から横道にそれて、対向車がこないかと心配な細い道を進むと、そこに開けた空間が広がる。大鳥居をくぐって長い参道を進むと駐車場を発見。大晦日の準備をする露天商がそれぞれに出店の準備を進めている風景が見えてきた。様々な縁日のテントを張りながら、たこ焼き、リンゴ飴、綿菓子、回転焼等、同じ種類の店が隣り合わせにならないように、うまく割り振っている。そんな忙しく準備に翻弄される方々の横をすり抜けて赤い欄干の橋を渡っていく。そこはまるでスタジオジブリのアニメ映画『千と千尋の神隠し』の一場面のように、息を止めて橋の端から端へと渡りきろうとしたが、もはや半分もいかない間に息が切れた・・・(笑)

Imgp0054_471x640_2Imgp0063_471x640_2神社は大麻山の自然が残る境内に樹齢千年のご神木や本殿がある。奈良の三輪さん(大神神社)もそうだが、山をバックに拝殿があり、その前には巳の杉という大木がある。昔はまともな拝殿もなく、その大木の方が古くから存在し、自然を神と崇めていたことを考えれば、このおおあさはんも大きな神木へのお参りは欠かせない。主祭神は、大麻比古大神と猿田彦大神である。特に大麻比古大神は、阿波(徳島)の忌部氏の太祖である天太玉命(あめのふとだまのみこと)とされ、初代・神武天皇時代にこの地に祀られたという。当然、それ以前にもここには古代信仰が存在し、もともとの日本神道が息づいていたと思われる土地の記録・記憶が感じられた。

その古代の歴史資源を境内にて見て回っていると、横道に入った林の中で猿2匹と出くわす。それは群れを成す猿たちの氷山の一角、あたりを見渡したところ“野生の猿に注意”という立て看板を発見。むやみに餌を与えたり、また目が合えば襲ってくると書かれており、あまり近づかなかったのが正解である。そのまま境内は大麻山へと続き、その奥行きを感じながら、拝殿から裏手に回ったところに近代産業遺産を発見。「ドイツ橋」「メガネ橋」がそれである。なんでも第一次戦争当時に捕虜になったドイツ兵がこの徳島に連行され、そこで収容されていたことは有名であり、捕虜が母国に帰国する記念として当時最先端の土木技術を駆使し、石を積み上げて作ったのがこの2つの遺産である。赤い煉瓦づくりではないが、その積み上げた構造上では、過去のブログで紹介した奈良-加茂を結んだ幻の廃線『大仏鉄道』にある軌道にあるトンネル等の構造物によく似ている。古代信仰を脈々と伝える神社の境内に、これまた近代産業遺産(軍事遺産も含む)に遭遇するとは、おかしなものである。ここでは一年の厄を祓うことと、この旅行の安全をただただ祈願するものであった。

Imgp0082_640x470この後は、宿泊先となるJR徳島駅前の旅館「阿波の国・昴宿よしの」へと移動。チェックインする16時前には到着したが、明日の行動も考えて途中にガソリンを補給。いよいよ徳島市内に入り、今から30年前に訪れた記憶が蘇る。それは最初に勤めたプロデュース会社“プランニングサーティーン”での初の大仕事となった「阿波の狸まつり」でのイベントデビューのことだ。細かく言えば、それ以前にもデパートイベントやファッションショー等でのアシストに借りだされてはいたが、野外で数日間開催する地方のお祭りイベントは初めてで、同期の同僚が先に「熊本の観光フェスティバル」「西本願寺の伝統法要」等に連れて行ってもらうのを横で見ていて、早く自身も大きなイベント(祭り)での現場体験を望んでいてのことだった。確か初めてで失敗(へま)もしたが、イベント現場(ステージ・広場展開、パレード展開)そのものの仕切りや記者発表にてマスコミの前でポスターをかざしていた。まさに現在までフリーのプランナーとして生き残れるだけの経験や覚悟が、このイベント「阿波の狸まつり」で培い、さらに今現在において、発注が増える地域振興(観光振興・産業振興)の企画・申請書づくりのルーツ(原点)が確かにある。

Imgp0083_640x479宿泊の旅館には2連泊を予定しており、大晦日と元旦に3名での宿泊(朝夕付き)で破格値となっている。過去にも突然の思いつきで年末ぎりぎりにネット利用の旅行予約から申し込んだ倉敷の旅館にも泊まり、部屋が狭く、風呂は自宅よりも狭く、トイレも狭い、おまけに正月なのに自宅での昼食のような夕食が出るなど数々の失敗談、おもろい話が山とある。確かに高額の有名旅館にも数回泊まっており、その施設・料理・サービスには満足を得てもいるが、よくよく考えればそこに滞在する時間の半分以上はふとん(又はベット)の中にあり、就寝している時間が長いと言える。気づけば朝になっており、朝食を取って身支度をしたら、さぁチェックアウトで料金を支払う。一宿一飯の恩義に応えてお金を払うのだが、少々貧乏性に出来ているのか、さてさて昨日食った晩飯のメニューも言えない頭脳からか、ここで一人数万円を支払うことにあ然としてしまう自分がいる。つまりハレの旅行の中で突如、請求書が届けばケになる自分がいると言うお粗末さである・・・ケケケケケケケケケ(笑)

Imgp0086_640x480まぁ、大晦日・正月と食事(夕食)の出来る店がはたして開いているかが不明なため、この2食付の旅館を押さえておき、また別なる場所の宿泊施設も探していたが、何よりも30年前の「阿波の狸まつり」にて泊まったビジネスホテル(サンルート系)と背中合わせにあるここを選んだというものだ。家内が、おめでたいことに元旦が誕生日であり、それを気遣って事前に旅館へ娘が電話を入れたようで、夕食の会席が進んだところで、うやうやしくロウソクが5本立った旅館の自作ケーキが届けられた。女将さんが家内から名前を聴き出し、もう一人の初老の男性スタッフも一緒になってハッピバースデーの歌を唄いだす。「そんな仰々しくしたくなかった」と後で言っていた娘も、その歌に乗せられて合唱する。部屋食ではなく、他の宿泊客と同じ食堂の中、その声はケーキの上のロウソクの炎を揺らめかせ、また私も揺らぐ音程で歌いながら、これはサプライズというよりもハプニング(いたずらカメラ?)に近いと心の中で爆笑しつつ、この場違いのような即席誕生日会が早く終わらないかと願ってもみた。「どうよ、この旅館は宿泊客とのアットフォームを重視し、誕生日にはケーキもサービスするし、歌もうたうのよ」と、恥ずかしさを通り越し、自慢げに歌う女将さんの横顔が見れて、微笑ましかった(笑)。

翌朝は、朝食を済ませて午前9時前には旅館の隣にある立体駐車場に置かれた車を引き出し、いざ初詣に出発。当初は、今回の旅行の目的でもあった古代の祭祀職である忌部(いんべ)氏ゆかりの由緒ある忌部神社へ行く予定だったが、事前に徳島の友人に電話にて問い合わせれば、元旦での初詣は道も狭く、また眉山の南側高台にある社にて大変に混雑すると言われた。特に車での移動は、駐車場所の確保をはじめ、多くのひとごみを覚悟しなければならないという。そのことで再度、徳島周辺地図を見直し、またネット上での情報を洗い直している間に、不思議なことに気付く。徳島(阿波)、香川(讃岐)に存在する奈良(大和)、大阪(難波)の存在である。確かに奈良、奈良坂、奈良街道、御所、樫原、難波郷、大坂峠と呼ぶものが土地名にあったという過去。そのことから私が住む奈良(大和)と深い縁を感じ、古事記、日本書紀にも登場する神々を祀る神社の幾つかを発見。その一つが「白鳥神社」、そして「水主(みずし)神社」である。この縁を感じるために、徳島から国道11号線で東かがわ市へと移動する。

Imgp0089_640x458Imgp0088_640x471こちらは奈良市内に住まいする者であり、山道の元・奈良街道を北上したいとも思ったが、やはり海のない県から来たので、国道11号線の瀬戸内の海岸線を走ることとする。旅行前にYou Tubeにて「国道11号線 徳島-高松」をチェックし、疑似体験でのドライブはすでに経験済みである。動画にあった讃岐うどん屋やガソリンスタンド、その多くは正月休みにてシャッターを下ろしているところもあるが、中には正月でも商売優先で営業するところも次々に出くわす。そして、いつものように道草となる海岸べりの魚介類やおみやげ品を売る・食べれるドライブインを発見。数台の車が駐車場にあることを確認し、立ち寄った。店内はところ狭しと徳島、鳴門、香川(讃岐)に関する土産品、特産品が並んでいた。その店内を見回りながら、徳島特産の竹ちくわを買い、この店の裏手にある防波堤の小路へと移動。入江には漁船がつながれ、またのんびりとした午前のゆるやかな時間帯に入り込んだように、ちくわをまるで犬のように口に加えて、ワン、わん、湾を巡る・・・(笑)。心地良い潮風を受けながら、なんでここにいるのか、いつもなら会議、打ち合わせの場に、また思考のすべてを企画書づくりにあるパソコンの画面に落とし込み、その時空間で過ごすはずが、今日はとんでもなく自然に溶け込んだ自分を、その近くで不思議と冷静に見ている自分がいた。

確かに2011年の暮れにすべてがリセットされた。伊勢神宮や出雲大社の遷宮のように、12年と言う周期(干支が一回り)の中で、自分の固定観念をすべて捨て去り、また徳島の地に大晦日に入ることで、本当の意味での初心を取り戻し、私というプランナーが化学反応した。いや時空を飛び越え、過去に抱いた業界への想い、この仕事に対する抱いたイメージそのものが蘇った筈である。遠くでとんびが2羽大空を旋回するのを見上げ、「いよいよだな!」と人生というマラソンのスパート地点に差し掛かっていることを確認していた。これは私のことだけではなく、この国におけるターニングポイントにあることも意識の中で存在する。その自身と国にとっての2012年を祈願するのが今日の初詣である。

ひとときの休憩を終え、ふたたびシートベルトを締めて車は、東かがわ市白鳥方面へと走り出す。昨日入れたガソリンの残量を確認し、少し安心しつつアクセルを踏み込み、右側に広がる平家・源氏が戦った瀬戸内海を横目に、まずは元旦の今日に訪ねる神社まで走り出した。日時は2012年1月1日、AM10時30分過ぎ、まだまだこれから・・・。(次回へとつづく)

2012年1月 5日 (木)

2012年は国生みの地からスタート(前)

Imgp0004_478x640快晴の中、大和の国から淡路・阿波へと新春の旅に出発。今年は大事な一年、阪神大震災以降にお隠れになった神々の天岩戸開きを願い、国生みの地を訪れる!
久々に旅行に出掛けました。年末・年始にかけての2泊3日の阿波・淡路方面への旅。昨年に起こった東日本大震災の大惨劇と共に、GNP3位に脱落、東アジアにおける一部の国々の不穏な動き、さらにはTPP、円高に伴う経済における不透明感、または政治が機能せずに消費税等の増税が叫ばれ、過去に類を見ない少子高齢が進む今、本当に日本国は大丈夫なのかと言う不安・不満が爆発しそうである。すでに17年前の阪神大震災より神戸・淡路を震源とする天岩戸に神々がお隠れになったとされるほどの厄続き。昨年に“なでしこジャパン”のW杯優勝と言う天宇受売命(あめのうずめ)を中心に民衆が騒ぎ、踊ったと言うのに、いまだに天照大神は岩戸に隠れたままのように、この国に陽が差さず、薄暗い闇の中にある状態である。一部では、大阪府・市のW選挙に大勝した維新の会の橋下新市長が日本武尊という者もいるが、本当の意味での救世主(メシア)が望まれている今の日本である。

今年は古事記撰上1300年の記念の年を迎え、その多くの豪族と共に神武東征により大和が国のまほろばとして多くの謎と封印を持っている。古事記、日本書紀等は、そのまま古史を書き残したものとは到底思えず、“勝者の論理”で書かれているのは確かである。いつの時代でも、敗者は途方もなく悪者扱いをされ、そこに真(まこと)があったとしても封印され、幾年かの時を経れば、まったく出鱈目な史実のみが残される。この日本国を心底蘇らせるには、そのような“勝者の論理”で書かれた歴史・伝承・神話を超越し、この日本国の始まりである“国生み”から心眼を見開き、その最初の大地であるオノコロ島、そして淡路島から何らかを得られればと考えた。まさに古事記編纂以前、初代天皇以前の日本国の在り様を知ることが大事であり、もともとの古代神道が存在していた時代。そして鬼として、また敗者として日本史の裏側に追いやられた豪族、氏族らの存在である。

Imgp0013_464x640・・・と、またまた堅苦しい年初め早々のブログになりつつあるが(笑)、要するに正月を自宅で過ごしながら御馳走を飲み食いし、近所の百貨店(ならファミリー)で初売りの福袋をしこたま買うことを考えれば、旅行にでも出ていれば飲み食いは旅館での金額内に収まり、また行く土地での初詣(神参り)は、入場料も必要がなく、ときたま道路沿いにあるコンビニで買い物をする程度と言える。出費を抑えて、非日常へと気分転換する年末年始を選んだと言うのが本音である。場所は、淡路島経由で鳴門、徳島、そして旅行中は隣りの県(香川県)にもちょこっと足を延ばすことになった。宿泊は2連泊でJR徳島駅前の旅館を確保、いままでにも破格値の旅館・ホテルを年末に予約し、その旅館・ホテルの口コミ情報をネットで読んでぞ~っとしたり、違った意味での期待を膨らませて、予想だにしなかった宿泊体験を得た過去がある(笑)

いつも通りにマイカーで家族と共に12月31日の早朝出発。帰省ラッシュにて高速道路の渋滞も心配だったが、阪神高速の神戸線、そして神戸淡路鳴門自動車道はいつになく快調に車で走ることが出来た。事前にYouTubeでのコースとなる高速道路を、ただ車で走る映像(フロントガラス設置カメラ)で既に疑似体験済である。鳴門市内から徳島市内も国道11号線を南下する動画を観て下準備。「あっ、ここに徳島ラーメンの名店がある」「ここに讃岐・鳴門のうどん店がある」「ガソリンスタンドにコンビニだ!」などと、事前に土地勘を頭に入れれば、初めての場所も安心である。初めてと書いたが、徳島・鳴門、淡路島には、過去に何度も来ている。特に最初のイベント・プロデュース会社に勤めた際、大舞台でのイベントデビューとなった『阿波の狸まつり』の地・徳島から、なぜか2012年の最初を踏み出したいと言う願望からこの旅行は計画された。まさに新社会人として、イベンター&プランナーとしてのルーツがこの徳島にある。自身の固定観念をすべて捨て、新たにリセットするからには、まずは徳島を訪ねたいと思ったからである。

Imgp0023_640x464某旅行会社から依頼される地域振興策、またインセンティブ団体旅行や懸賞旅行、モニター旅行等の企画から行程表を企画書に落とし込むことが多いが、自身の家族旅行ではその経験が役立っており、立派な行程表(スケジュール)を含めた“旅のしおり”をパソコンで作成している。おおまかには①日目(12月31日)は鳴門観光と大麻比古神社、②日目は東かがわ市の白鳥神社、水主神社への初詣と徳島市内観光、③帰路の途中で淡路島の伊弉諾神宮への初詣を計画した。時間配分まで見込むが、実際には結構な道草をしたり、道を間違って途方もない方向に走ったりもしている。特に自動車に備え付けられたカーナビは、肝心な時には一切何も言わず、どうでもいい時に「あと10キロを直進」とか言って惑わされる。以前などは、目の前に目的地が見えているのに反対車線にそれがあるお蔭で大きく迂回させられたこともあった。帰りの道で、いつもの走り慣れた道路を走り、あと5分で自宅に到着と言う時になって突然「長距離での運転お疲れ様です。ここで少し休んで行きましょう!」と言ったのには唖然とさせられた(笑)、目と鼻の先に自宅があるのに、なんでここで休憩やねん(とツッコム)。少々我が家のカーナビは空気の読めないふとどきものである。

Imgp0001_474x640さてさて旅行の話に戻るが、1日目(12月31日)はいつになく晴天で、気持ちのよい青空が広がり、鳴門の海も穏やかだった・・・と言うものの、やはり鳴門の渦潮はぐるぐる巻きによく波立っていた。それは鳴門公園にある大鳴門橋架橋記念館エディやエスカヒル鳴門、そして大鳴門橋遊歩道渦の道を訪問し、その屋上やガラス張りの床から観た渦潮によるところだった。一般に年末年始に休業・休館する施設が多い中、事前チェックで得ていた営業(年中無休を含めて)情報で、ことなきを得たことと言える。やはり昼前になってきたら旅行会社、バス会社のツアーらしき団体が各施設に大挙押し寄せて来た。そのお目当ては大半が、大鳴門橋の車道下を通る渦の道で、入館500円ながら渦潮の上を空中散歩するのである。特に床面に備えられたガラス床は、下界に広がる渦を巻いた海面を観ることができ、子供などは喜んでそのガラス面の上で飛び跳ねていた。まぁ強化ガラスでできているので大丈夫だろうが、一つ間違えば、高さ50m近いところから海面へまっさかさまに落ちる寸法だ。

また、ここでのもう一つの見どころはエスカヒル鳴門にある国内第二位の長いエスカレーターだ。鳴門山の山頂までを結ぶ全長68m、高低差34mのエスカレーターは東洋一の高低差を誇り、実際に昇りながら、下を見下ろすと確かに怖い。ロープウェイやリフトという方法もあるのだが、エスカレーター利用料400円は、日頃に無料で利用する駅や百貨店・スーパー内の感覚からすると「なんで?」となってしまう。ただ屋上にあるパノラマ展望台からの眺めは絶景で、眼下に大鳴門橋や鳴門海峡、さらには淡路島や小豆島も眺められる。有料料金のおかげで、この日はあまり利用者が少なく、展望台は貸切状態だった。当然、昇れば降りなければいけないが、この降下はまるでスキージャンプのように、足元のステップを残し、下までエスカレーターだというものの、高所恐怖症の方には最悪な絶景と言えるだろう。当然、降りたところは1階の売店内となり、遊園地やテーマパークのアトラクションの出口あたりと同じ風景が広がった。

Imgp0050_640x480いよいよ昼前となり、早々に鳴門公園を脱して、鳴門市内にある徳島ラーメンの名店へと移動を開始。こちらも車のナビにその店の電話番号を入力し、位置を確認しながら案内に沿って目的地へと車を走らせる。海岸べりを走りながら、もし今、南海地震が起こったら車ごと津波に飲み込まれるだろうと恐怖心を抱いた。なんら変わらない日本の漁村風景、しかしこの辺りにはあまり高台と言える山も少なく、高さ15mにも及ぶ津波が来ればすべてが飲込まれてしまうことも確認できた。特に車を走らせる県道、市道からは、高台へ逃げる道も少なく、単に砂浜沿いを走る風光明媚な風景でしかない。まだTVやYouTubeで観た東日本大震災の漁村における津波の悲劇が映像として頭に残る今は、どうも残像被害があると言えるだろう。そんなこんなを妄想しつつ、ものの15分程で鳴門市内の1件のラーメン店に正午前に到着した。

ここが今回の旅行におけるグルメにおける最初の目的地「支那そば三八・斉田店」である。支那そば三八は何軒かの店舗を県内に有し、スープの色から黄色い徳島ラーメンの異名を取る名物店だ。店先の駐車場に残り1台分のスぺースを見つけ、そこに車を滑り込ませれば、すでに他府県から訪れたラーメン好きなお客が店外で順番を待っていた。順番を決める名簿に名前を書き込んで待つこと10分少々で店内に入れた。メニューは至ってシンプルで、ラーメンは特盛・大盛・小盛の三種で、それと同じサイズの肉入りがある。以前、奈良の彩華ラーメンで通常サイズを注文したら大盛サイズが出てきたので、ここは小盛を注文し、トッピングに“もやし”を追加した。待つこと10分少々で支那そば三八の肉入りラーメンが目の前に。確かに白湯、いや少々黄色がかっているスープは淡白な魚介系の味わいで、それほど濃くもなく、薄くもない味付け。記憶を呼び覚ませば、そうそう京都の“天下一品”のスープを薄めた味に似ている。さらに麺は細麺で、京都風ラーメンを連想させた。これはこれで旨いが、飲酒後のほろ酔いにはいいが、がつんと食いたいラーメンかは未定である。まぁ、初めての徳島ラーメンであり、まだまだ種類も内容もある他のラーメンを食べて見たくなったのも事実。

まずは年初めは、除夜の鐘を聴く前に鳴門までたどり着いた話をご紹介した。この先は、おいおいこのブログで紹介するとして・・・まずは4日からの仕事始めで今年も走り出した。このブログに遊びに来る方々との縁を感じながら、皆々様のご健勝をお祈りしつつ、よ~し今年はニュースタイルのプランナーでリセット!どうぞ、よろしく・・・。(次回へつづく)

2011年12月28日 (水)

My企画遺産の蓄積(大掃除の中で古文書発見)

Hi3e0182_640x480覚悟を決めて2012年は企画の道を歩きたい。すべての蓄積した自身のキャリアも、発想力も、テクニックももはや超越し、自身が望む仕事に対して誠実にトライしていきたい!
業界に入って以来、コーヒーを飲む機会が増えた。あれほど新入社員だった頃は、打ち合わせでもココア、コーラー、ミルク等と注文し、コーヒーを拒絶し続けたものの、同席する方々の中で一人だけ注文を変えれば、やけに待たされることを知った。それはKYな事であり、さっとテーブルに届くコーヒーによって打ち合わせがスムーズに行くことや、すでに席を立とうとしているにも関わらずまだ注文が来ないこともあったもので、それ以来、業界人=コーヒーということに妥協した。まぁ妥協と言うには語弊があるが、自身を順応させることで業界に入り込んだわけだ。だから、今では1日に打ち合わせが続くと4、5杯のコーヒーを飲むことになる。

事務所から車でそう遠くないところにコメダ珈琲店がある。もともと奈良には“青山珈琲”もあったが、建物の老朽化と不況から撤退を余儀なくされ、もっぱら駅に隣接する市街地にあるスターバックス等の喫茶チェーンが持て囃されている。ご存じのように、愛知県に本社を置く㈱コメダの喫茶店チェーンで、名古屋人にはお馴染みのメニューが並ぶ。特にコメダと言えば“シロノワール”で、温かい甘口のデニッシュの上にソフトクリームを乗せた軽食兼デザートで、添えられているメープルシロップをかけていただくのである。なんでも名前の由来は日本語の白(「シロ」)とフランス語の黒を意味する「ノワール」を組み合わせたもので、冷たいソフトクリームと温かいデニッシュという対極の組み合わせになぞらえてつけたそうだ。なんか“シロノワール”と聞くと、東京出張で必ず利用するオッチャンらの喫茶店「銀座ルノアール」を連想してしまう。

まぁ、朝からお気楽にコーヒーと甘いもんをとって、そろそろ事務所の大掃除に着手しようと思う。すでに昨日に開かずの押し入れを事前にチェック。幾度かの引っ越しの度に、大仕事となる私と言うプランナーの歴史を物語る企画書(提案書)、計画書、進行マニュアル、進行台本等の膨大なストックの移動・整理。電子データで保存できないものばかりで、手書き時代、和文タイプ時代、そしてワープロ時代のものがB4、A3サイズの大判のファイルに収まり、それ以外にも大きな段ボウル箱数個にどっさりと詰め込まれている。また個人会社になって以来の会社関連の帳簿、領収書の束は、すでに13個もの段ボウル箱に入れられている。経理上の帳面は5年以内のもの以外は処分してもいいのだが、それを捨てれば過去に自身が存在していたか等も消滅するようにも思えて手放せなかった。

Hi3e0199_640x480特に企画書等は、自身の頭脳、感性の創造物であり、ある意味での産み落とした子供のように、そう簡単には捨てられないのである。一つ一つを読み返し、その企画にある趣旨、コンセプト、テーマ、展開内容などを確認すれば、かすかな記憶の中でその事業のことを思い出す。とは言うものの、すでに業界に足を踏み入れ8000本以上の企画書や、またコピーライティングの印刷物(成果物)も残されている。確かに、これらの嵩張る紙データを処分すればどんなにか室内が片付くかもしれない。一度、納品した過去の企画書はめったやたらに見直すことはなく、自身がそれら過去のアイディアを見直す事があれば引退すべき時と自覚しており、ただ保管をしているに過ぎない。

すでに私の両親は亡くなり、その葬儀の後に遺品整理をしているが、故人が大事にしていたものを残すと言っても、それがなんら意味をなさず、がらくたに思えてしまうことがある。当人には良き思い出や重要な宝物かもしれないが、なんら感情移入がされない物質のなにものでもなく、すぐさま遺族で処分したのも事実。それを考えれば、私が亡くなった後のこれら段ボールに納めた企画書やマニュアル、台本、原稿用紙等はまさに遺族には無縁なものであり、ただ重たく、煩わしい紙屑に見えてしまうのだろう。もはや押し入れは収納の体を成しておらず、押し入れに入りきれない様々な企画資料は膨大に事務所の床を占拠している。だから、現在進行形の企画資料を下手にその辺に置けば、まぁ紛失することになり、必死のパッチで探すものの必要時には見当たらず、すでに用無しとなった半年、いや1年後に見つかったこともある(笑)

とにかくあの話題のイベント、あの注目された販促キャンペーン、さらにはスポット等でのキャッチコピー、車内吊ポスターの計画書・・・等など、企画オタクの私にすればよだれが出るほどの提案書、企画書等が保管されており、その舞台裏が分かると言うものだ。しかし、フリーの私には、事務所と称する部屋を通り越し、生活圏となる別なる家族の部屋の押し入れや収納庫にもイベント道具(トランシーバーや文具類、忍者の衣装、ロボット、簡易音響機材、福袋の束など)がどっさりとスペースを取っており、“ものを整理できず、また捨てられないだらしのない人”と烙印を押されている。だらしないと言うのは少々違っていると自身は思っている。自分の生きた証としての遺産である。まだ死んではいないが確かに遺品のように、私にとっての歴史を刻む一つ一つであり、それがクライアント、オーガナイザー、スポンサー、さらには消費者や読者、視聴者、イベント参加者等に、それはそれとして何らかの影響を与えた最初の一歩と言える。

Hi3e0194_640x480そんな業界に入って以来、持ち続けて来た過去の遺産の中に、このブログでも書きに書く、言葉(文字)の羅列、湯水のごとく流れ出るセンテンス、そこに感情や叡智までも散りばめると言った日々の行為そのものの原点を発見した。それがカラフルなノート数十冊に上る“日記帳”である。確か中学校時代から28歳頃までの15年間に及ぶ日々の暮らしを書きとどめている。書く時は必ず1日を1ページ以上、また1篇の詩(ポエム)も書き添えられている。誰に読ませるものでもない日記は、青いインクの万年筆で書かれており、少年期、青年期、社会人として業界に入って下積みをしていた頃を丹念に書き残している。来年は古事記編纂1300年の記念の年だが、まさに自身の生きてきた証を書き残した古文書が発見されたと言える。その中に描かれた自身の苦悩、喜び、怒り、不安が様々な言葉で刻まれ、そして詩を通じて書かれている。幾つかの詩は詩歌の同人誌等にも送られ、度々掲載されていたものもある。

やはり自身の創造力と発想力、そして構成力等を培ったのは、この日記からだったことを思い知る。大学4年での就職活動、悪戦苦闘の中で業界への道を切り開いてくれた家族、周りの人々と最初の会社、そして寝食を忘れるほどのイベント、企画書づくりへの没頭。さらには退職、再就職、退職を繰り返して5社を経由した後の独立への心構え等も、その日時を明記しての細かい記録がなされている。確かに私はその時空間の中に存在し、その都度の選択を自身の運命と共に生きていたという事実が分かる。当然、仕事やプライベート、また他人には言えない心の葛藤などが記載されている。特に職業柄、いや学生時代からの趣味としての映画鑑賞についての感想が随所にて読める。一人で闇と光の映像芸術、総合芸術と呼べるスクリーンの中に身をおいて、何かを考えていたというのが分かる。

Hi3e0195_640x480企画づくりもある意味映画づくりにも似ている。全くの“無”から“有”という映像、音声、ドラマ、感動などを作り出すもので、それも真夜中にコツコツとパソコンと言う四角い液晶画面の中で事業を形作っていく。確かにセンテンスを組み上げ、またチャート図を用いてプロセスを編み上げて行く行為ながら、そこには商品であったり、サービスであったり、さらにはエンターテインメントとしてのヒト、モノ、時空間(バショ)が描かれる。まさに何もない自分の暗がりから、パッと閃きとしてのアイディアをスクリーンに映し出すように企画は企てられるのである。そんな努力と苦しい思いまでして創った数々の遺産を、みすみす捨てるのは忍びないが、2012年を前にして、すべてをリセットしたいと思う今は、とにかく過去を捨てよう、凝り固まった古びた手法や思想、アイディアのすべてを改めたいと思うのである。2012年は、本当にびっくりする新たな企画道を歩こう。いままで平坦で長い道と短くも急勾配の棘の道がある際は、なんら躊躇せずに急勾配の棘の道を選んできたのだから、また初心にてそこから始めたいと思う。

2011年12月23日 (金)

究極の企画人生を歩く!

Hi3e0189_480x640魔法が解かれたように、もうすぐ封印が解ける。「なぜ、いつも帽子(ニット帽)をかぶっているのか」の疑問は、ほんの些細なところから律義に継続されているに過ぎないのだ。固定観念を捨てればすべてが分かりだす・・・(笑)!
結構な飽き性である。しかし、あるところでは途方もなくこだわりと物事の継続を重視する。それは自身の中での挑戦であったり、言葉を変えるならば「実証実験」とでも言うように人知れず自分の中で掟を設けて、粛々とその馬鹿げた決まりを厳守し、遂行している。ある種の趣味、ある種の強情な“賭け”でもあり、それを続けることが如何に自身を変えるのか、また変わることがないのかを見極めたくて無謀な“掟(実証実験)”を自分に課してしまうのである。ここまでの人生で、「25年毎に名前を変えて生きてきた」ということもその掟、定め、実証実験なのかもしれない。自身がそれを拒み、辞めれば辞められることではあるが、それを受け入れた時に、何か途方もなく新しい自分が生まれるような気にもなる。今ある自分自身が、そのこだわりやバカげた賭けに出た場合、ある意味で人生を棒に振るかもしれない、もっと普通に生きれば幸福も苦労なく手に入ったのかもしれない・・・と考えることもある。

確かに自分はサラリーマンや公務員と言った職業の選択があったはず。また親や周りもそのことを強く望んだという事実もあるが、自身が答えを導き出したのはクリエイターという職業であり、自身のアイディア(思考)を用いて事業やシステム、商品・サービス等を創造する企画という領域に身を置くことを望んだ。当然、閃きの中で依頼主(クライアント、又はオーガナイザー、スポンサー等)にそのアイディアを出して儲けさせるなら、自身でその事業を立ち上げたり、また商売として投資した上で儲ければいいという考えもある。実際に自身が出したアイディア(企画)をもとに大きな利益を生んだ企業のケースも数え切れなくあるし、さらに現在も知られる商売やイベント等も多く残っている。ただ企画書を書いて、アイディアを売り、その事業を推進するための方法論を示し、そして着地点となる成功や儲かる等の結果すらも予言するのである。

私はこのプランナーという職種にあるが、実際にはコピーライター、シナリオライター、イベンター、デザイナー、PRライター、アドバイザー、コンサルタント等と、その企画の領域は多種多様なクリエイティブ領域全てをカバーする。もともと名刺にはそのような肩書も入っていた時代もあるし、また一通りの媒体や広告(マーケティング&プロモーション)、イベント等を幾つかの会社を渡り歩き、そして自身の会社を興すと共に学び、体験し、取り組み続けて来た。その中で、この仕事の奥の深さ、人々の欲求や時代のニーズに応えることの難しさであったり、そして企画書と言う近未来に実現すべき事業や商品・サービスなどの誕生のための予言書は、単に思考という能力だけでは適えられないと気付いたのである。ある意味において悟りのように「私は三度生まれ変わっても、その魂が覚えているならまたプランナーを選ぶ」と豪語している。まぁ、豪語と言うよりも有言実行のように適えられればいいと思うのである。

また、私は「人生をプランニング出来なければプランナーではない」とも言う。人様の大切な事業、会社組織、商品・サービス、さらには景気や運気を預かるにおいて、自身がプランナーであることは、単に職業・職種というものだけではダメで、まず自身の人生をコントロールするほどの生き方が重要とも考えている。当然、思考能力だけでプランナーとして成立するものではなく、すべての五感を使った上に第六感という未知数の能力を使い、さらには天智とも言える“運”を持ち、操れることが重要だと思うのである。自身の仕事においてなぜにここまで考えるのか、もっと簡単に金儲けのビジネスと考えないのかとも思うが、人が思うほどにこの仕事は華やかなものではなく、また儲かると言うものでもない。確かに自我を高め、自身が金儲けすると言うプランニングを、今まで立案する機会やその人脈等は持ち合わせてはいたが、先にも書いたように三度生まれ変わるプランナー輪廻転生の導入部分であり、本当にどうすれば良きアイディアが出て、その上で今までに閃かなかったアイディアを出せるかを試すところである。

つまりは自分と言う人生を使って「実証実験」、モニターリングしているのかもしれない。いや、確かに自身の波乱万丈の生き方については、自身が望む望まないにも関わらず、自身でレールを敷いた上で歩き出していると言えるだろう。確かにこのまま進めば・・・「とんでもない事態が起きる」「大病を患って生死を彷徨う」「自身のプライドも実績も失う」等の確実な着地点が分かっていたかもしれない節があるにも関わらず、そこに向けて停止や迂回、引き戻すこともせずに突き進んだと言える。折角に積み上げた自身の実績や知名度も、25年おきに名前を変えることで、まったくの別人になってしまい、また一から実績と信用を作り出さなければならないことも分かっている。しかし、伊勢神宮や出雲大社等が決められた周期にて遷宮を行うように、ある程度の年月の中で積み上げた実績や信用は、そこにあぐらをかくには格好の逃げ場であり、保身としてのキャリアとなる。だから初めてお取引をする際に、自身のプロフィールやビジネス実績を提出させられるが、実際には過去の遺物よりも今現在においてどのような企画が描け、どのような行動が取れるのかが大事だと思っている。まず、過去の実績をあてにされないことをその場で申し上げている。

Hi3e0196_640x480自分の人生を使って、途方もない“賭け”“願掛け”“ジンクス”を操っているのも事実。それらは言霊の如く有言実行の中で発した自身の約束事であり、ある時は相手がいてのものもある。それは本当に真面目な約束事から、ある意味において無謀であり、遊び半分のバカげたものであることも知っている。自身はフリーのクリエイターとして、別に会社組織に拘束されることもなく、また時間においても比較的自由に、好きな時に好きなとこころに出向くことができる。昔のコピーにあった「自遊人」のように自由が多いが、こと仕事上の納期の締切だけは“厳守”である。それまでが自由に信頼され、放任されているとなればなおさらであり、納期を遅らせることで損出をクライアントやオーガナイザーに与えたとなっては、どんなに優れた企画であっても決して許されることではない。だから、自由なんだが、締切に関しては何が何でも守るという律義な性格が求められる。いくら納期を約束したとしても、その依頼事項に応えられるだけの才能やアイディアを持ち合わせていなければ、納期も守られないこととなり、それはお金を貰うプロではないということだ。

このように納期以外は誰からの束縛もなく、自身はよく家族から「自分のことで精いっぱいなひと」と言われている(笑)。確かに仕事が趣味であり、また仕事が生きがいであり、人生そのもののように見えているのだろう。その裏、自身にはかなりの束縛となる決め事(ルール)を課しており、その内容は馬鹿げたものや遊び半分のものから、事態を打開するための願掛けのようなものまで多岐に渡る。それは幼児期から一人で遊ぶルールを決め、自転車を乗っての列車ごっこを考え出したり、また通学の行き帰りに石を蹴りながら校門まで運ぶと言う遊び、さらには日影を踏みながら一切陽だまりを通らずに帰宅するなどと、アホみたいな遊びのルールを考えたものだ。よく町で宗教団体の勧誘に会う時があり、その都度「私は子供の頃に魂を悪魔に売ったので、別に信仰はお断り」と話している。小学校の授業が始まってすぐに尿意をもよおし、なんとか授業時間45分を我慢して過ごすことができるならと、「この危機を救っていただけるなら悪魔に魂を売る」と言ったバカげたお願いをしたことも事実である。この件は、何度も危機が訪れるごとに魂を売っているので、もはや生まれ変われないのじゃないかと輪廻転生を心配している。

そうそう、特に大学時代は自由な校風に胡坐をかいて、友達と変な賭けや決まりを作っていた。例えば、昔ながらの焼肉屋に仲の良い友人5名で出掛け、ボールいっぱいに様々な牛のブイが入った焼肉(実はホルモン)を食べていた。その際に誰が言い出すでもなく、5人でジャンケンをして勝った者から「俺はハラミ」「俺はバラ」「俺はミノ」「俺はレバー」「俺はツラミ」等と、そのボール内の肉のブイを選び、この店に来店する際は、その者が選んだ肉のブイしか食べれないなどと誓約したものだ。私はミノを選び、今でもその店ではミノしか食べられず、そこの店主も顔を見た途端に「ミノ一丁」となる。まぁ、私がミノなら、別な友人はその5名で集まるごとにレバーを焼いて食っている(笑)。確かに偏食気味な食の嗜好は、このような遊びから派生した決まり(ルールづくり)で今に影響している。また、大学時代に友人数人と大阪郊外の外環を深夜に車で走り、飲食店(例えばお好み焼屋)を見つけては「前後無限勝負」というのをやっていた。数人でジャンケンをして勝った者から前、後ろを決めて、お好み焼き、焼きそば、定食、かき氷、丼等を決め、その前から、後ろからメニューを次々と注文し、ギブアップするまで食べ続けると言う大食い選手権である。つまり同じ種類の料理メニューを前から食べる者、後ろから食べる者の勝負である。豚玉、いか玉、えび玉、肉玉・・・等ときついお好み焼きの連続、定食となった者や、かき氷だけを何種類も食べるなど自身で課したゲームのような注文の仕方は、変なルールを決めたらやり抜くという継続力を生み出した。

社会人となり、初めて営業した際に、ある有名な上本町のうどん屋に営業に出掛け、広告をもらおうと何度も断られながらも通ったあげくに、私は一つの提案を主人に持ち出した。「この新聞広告を出稿いただければ、私は生涯この前の道を通る度にこの店に入り、幾つかを注文してお金を使う。そうなれば、この広告費などは元が取れるどころか、大将の方が得となる」とまたいらん誓約をしたものだ。確かにあれ以来、約30年近くにおいてうどん屋の前の道路を車で通る度に来店している。あきれるほど律義で、生真面目にその約束を守り続けているのである。きっと大将(主人)ですら、そんな約束は交わした覚えもないとすっかり忘れているに違いないが、今も変わることなく、その取り決めを続けており、きっと生涯に渡ってそれをやり通す筈である。この前は四天王寺の両親が供養されている寺院に出掛けた帰りも、やはり上本町を通った際に、家族ですら知らない、この約束を誠実に履行すべく車を店先にある駐車場に滑り込ませた。

Hi3e0195_640x480_2これ以外にも人には言えず、知られたくもない“賭け”“決め事(ルール)”“ジンクス”がかなりある。何度も言うが一度決めたらとことん律義にそれを守り通してしまう大馬鹿者である。誰がその約束を守るかを見守っているでもなく、破れば罰則があるでもないが、自身で決めたその決まりをある一定の願掛けとして、また自身の中での許可が下るまでは続ける。その為には要らぬ出費や蒐集癖がつくのである。よくよく自身の部屋を見渡せば、多くの眼鏡があり、また百を下らないニット帽が多数積み上げられている。ここに写真で眼鏡やニット帽を撮影しているが、それはほんの一部であり、その数はミカン箱数個分になる途方もない数となった。眼鏡は伊達メガネのものも多く、自身の顔を変える変装用としてのものから、物事を様々に観るというジンクスもあって、ビジネスやプライベート上でのTPOに合わせて眼鏡をかけてきた。ここにも勝負師、例えばプロ野球監督が、勝ちにこだわり「赤いパンツを履く」「勝っている間はパンツを洗わない」「球場への移動に使うバスは決まった勝利のルートを通る」等などのようにジンクスと言うのがいいのか、一種の決め事(掟)のようなものがある。

確かに「なんで帽子(ニット帽)をかぶってるんや」「その帽子は人前で脱いだことないんか」とよく聞かれる。およそ12年間、帽子をかぶり続けて来た。最初はツバのあるハットをかぶっており、いつしかニット帽となり、気がつけば夏用・冬用などと同じようなニット帽が百以上を超えていた。これを友人との賭けで始めたと言えば「アホか~」と言われるだろうか。12年間、人に頭を一切見せずに、毛も見せず、怪我をしない(毛がのない)というジンクスであったというのでは、本当に納得頂けるだろうか・・・と悩む。もはや封印は解かれようとしている。ある意味の年季が開け、それを約束した人物との“賭け”に勝ったと言える。本当に12年以上、人は帽子を人前でかぶり続けて、一切頭を見せずにいられるだろうかという賭けがあったとしても、ここに書いた馬鹿げた決まり(ルール)や約束の話を知れば実際にしてしまう人間だと言うのが分かっていただけるだろう。

自身の人生を棒に振ることも辞さず、ある種のユーモアと底抜けの律義で、自身に正直なる生き方を実証実験していると言えば納得いただけるだろうか。天の運命に刃向かうように、少々度が過ぎる自身に課する束縛(掟)なる取り決め、いよいよ2012年の辰の年、そんな既成概念そのものを打ち破り、封印を解いた新たなプランナー(企画の王道)が登場するだろう。まぎれもなく、また違った“賭け”にこの年末に出始めており、さらなる願掛けについても、すでに自身との誓約を取り交わした(笑)。

2011年12月13日 (火)

大阪ラーメン食べてみた

Imgp0007_640x471ご当地ラーメンを目指して開発・販売された「大阪ラーメン」が好調である。東京タワーの次に産経が手掛けた大事業のようなおもしろ企画だ!
先月の12、13日に姫路で開催されたご当地グルメの祭典『第6回B-1グランプリin姫路』に出掛けた。2日目の早朝から会場に出向き、食したのは焼きそば、餃子、すじこんの野菜炒めだった。2日間で51万人以上を動員し閉幕したが、その異常なほどの熱気と反響には驚かされる。実際に昔からその土地で愛され、その地域の名物料理と言えるもんが多く出品されてもいるが、地元の人ですらあまり知らないご当地グルメもあるようで、即席に新たなB級グルメを開発し、この祭典に間に合うように出展するケースも実はあるようだ。確かに、地域の中にあるある店で作られ、また販売を続けていたが、それはあくまでもご当地グルメはなく、その店の看板メニュー、場合によっては裏メニューで贔屓の常連がついているものかもしれない。後付けで、B-1グランプリで注目された後、一切そのメニューを扱ったことのない飲食店が急に販売するケースもあるようだ。

Imgp0079_640x480たしかB-1グランプリで上位入賞し、話題になったB級グルメを扱う店だと告知するのぼりを他店から盗み、ちゃっかりそのお鉢をいただこうと言う輩がいるのも事実で、そのために組合や協会を作り、質と名前を汚さぬように地域での連携を深めてもいる。最近は、店でその有名B級グルメを扱っていると告知するのぼりが頻繁に盗まれるのを防止するために、のぼりに通し番号を打っているとも聞く。たかだかB級グルメ、しかし「富士宮やきそば」「ひるぜん焼きそば」「津山ホルモンうどん」などのブランドは、もはや商品価値を高め、最寄りのスーパーや通販等でも販売されるほどである。当然ご当地グルメと言うだけに全国的に買うことが出来ても、そのご当地(地元)に来て食べらてもらうことが実際に地域振興としては望まれる。単にご当地グルメというものの地域にはなんら恩恵がなく、扱っている一部の会社やショップだけが潤ったところで何にもならないと言えるだろう。

その意味で地域振興が先か、またご当地グルメが先かが悩ましいが、実際にどちらにしろ今の地域の課題である観光と産業の振興に伴うビジネスモデルの創造や産官学民連携などのプラットホームづくりを考えた際にグルメ(「食」)の魅力と集客力、さらには経済効果が期待出来るのであれば仕掛けてあたりまえとも思える。ただ、B級グルメというジャンルは、どこまでがB級なのか、その基準は何なのかが不確かである。うまい料理はB級であろうが、A級であろうがその区別にはあたらず、和洋中の定番料理や扱い飲食店・レストランの格式によって差異があるのも実際には納得しがたいものがある。しゃっちょこばって高級なフランス料理を食べるのであれば、大阪でモダン焼きにどて焼きを食べた方がおいしい場合もある。口から入って排泄してしまえば、実際にはAも、Bも、またはCもないと言うこと。そういってしまうと実も蓋もないが、ただ「B-1グランプリ」では、特に目を引くのが「焼きそば」「焼うどん」の類があまりにも多いと言う点である。

012_640x480毎回登場するエントリーの多くが「焼きそば」「焼うどん」であり、その料理名の前に土地名をつければご当地グルメとなる。例えば「横手やきそば」「日田やきそば」「ひるぜん焼きそば」「石巻茶色い焼きそば」「男鹿のやきそば」「富士宮やきそば」「上州太田焼きそば」等などとある。この土地名のあとに「焼うどん」とつければ今度は焼うどんのご当地グルメのラインナップができる。もともと地元では、料理名の前に土地名を入れていた筈もなく、奈良に住んでいて地元で「奈良焼きそば」「奈良焼うどん」などを見たことも、聴いたこともない。当然、「焼きそば」であり「焼うどん」でしかない。もう一つ言えば店名が頭に乗るだけのものだ。風月の焼きそば、千房のモダン焼き、くくるのたこ焼き・・・となる。これはものまねをする際に「私は綾瀬はるかよ」「俺は木村拓哉だ」というようなものでネタバレをしながら、相手にイメージを先に植え付けていることのように思える。

もともとこの料理名の前に土地名を付けるのはラーメンに限られていたように思える。札幌ラーメン、博多ラーメン、京都ラーメン、和歌山ラーメン、喜多方ラーメン・・・等などであるが、そんな地方のラーメン屋が目指すのが東京での出店であり、“東京ラーメン”そのもの存在がかき消されるように首都圏には多くのラーメン屋が大挙押し寄せている。今やラーメンは、国内に限らず海外進出も図り、世界各地にチェーン店を出店するところも多いようだ。また、インバウンドにて中国・韓国・香港・台湾等からの観光客も日本観光と共にラーメンを食べたいと言うニーズは多く、食べた後にその味の醍醐味に取りつかれる人も少なくないと言う。そのまま日本に居ついてラーメン店で修業をする人や、さらにはその技術を母国に持ち帰ってラーメン屋を始める者もいる。敷居の高かった寿司も回転寿司というネタそのものを知らなくても、回っている皿の寿司を見極めて自由に取って食べれる方式が受け入れられ、肩肘を張らないA級からひとランク下げたグルメの扱いが外国人には気に入られるようだ。

Imgp0001_640x467そんな中、産経新聞の大阪本社社会部がなんとカップ麺を作った。その理由は「なぜ大阪にはご当地ラーメンと呼べるものがないのか?」である。とは言うものの私の好きな「神座」や「揚子江」等の大阪の名物ラーメンもあるのに、ご当地ラーメンがないと言い切るところは新聞社らしい視点なのかもしれない。そのコンセプトは何なのかだが、12月3日の経済面に出ていた記事から抜粋する・・・

〇コンセプト
大阪ではお好み焼きやたこ焼きといった“粉モン”に加え、昆布だしの効いたうどんの方が好まれる傾向があるが、日本コナモン協会会長で食文化研究家の熊谷真菜さんは「大阪人が『食』に関して意外なほど保守的だったことも色濃く影響している」と指摘する。
取材を進める中で次々と明らかになった大阪とラーメン開発の手掛かりが取材を通じて積み重なり、部として一つの結果を導いた。

それが「甘辛」と「始末」。大阪人には、味が濃いと感じる一歩手前にうまさを感じるポイントがあり、大阪ではそれを「甘辛」と呼んで好まれていること。そして、食材を無駄なく使い切り最高の味を引き出す「始末」の心が、大阪の食文化の礎になってきたことを柱に据え、大阪ラーメンのコンセプトが固まった。

今年1月にはラーメン店主らの協力を得て、イベントで生麺を販売。用意した1千食がわずか5時間で完売し、大きな反響を呼んだ。ただラーメン部といっても調理に関しては素人の集まりにすぎない。ご当地ラーメンとして認知してもらうため、第2弾として考えたのが、カップ麺の開発だった。


・・・以上のように大阪ラーメンのコンセプトは「甘辛」と「始末」であり、「笑い」「ありえん」「いちびり」「いらち」等は蚊帳の外である。本当に真面目にご当地ラーメンに挑戦していることがうかがい知れる。確かに今までラーメンではないが、缶ジュース『みっくちゅじゅーちゅ』なるミックスジュースを捉えた商品開発・発売が在阪局の番組で行われてもいる。最近はこの手のメーカーやコンビニとのタイアップでの商品開発が進んでおり、地域振興策として産学連携によるご当地弁当やおみやげ用グルメなども多数開発・販売を仕掛けている。ただ、新聞社という多忙の毎日の中、残業時にデスクでカップ麺を食べる姿が頭にも浮かぶし、営業や取材時でのランチにラーメン定食を選ぶこともあるだろう。大阪は、お好み焼き定食と言って、お好み焼きを主食あるいはおかずに、ごはんとみそ汁をつけた定食があり、ラーメンと言えば焼飯やおにぎりがついていることが重要なようにも思える。東京のようにラーメンだけを食べるのではなく、ラーメン定食は大阪スタイルのような気がするのは私だけだろうか。

Imgp0012_640x476今日の産経新聞(朝刊/12月13日)の総合面にまたまた大阪ラーメンの記事が出ている。もちろん自宅で契約購読をしている新聞であり、子供の頃から読み親しんだ新聞だけに、この「大阪ラーメン開発プロジェクト」の記事は、その当初から読んでおり、追跡記事やトピックスの多くにも目を通した。そしてエースコックとの提携によりカップ麺として市場に出回り1カ月、手前味噌な記事ではあるが、その現況の評価と反響をここに抜粋する・・・

〇大阪ラーメン 1カ月分“完売”~「定番より売れる」供給体制強化急ぐ~
エースコックによると、発売後1カ月間に予定していた出荷数はわずか1週間足らずですべて販売。同社広告宣伝チームの松山幸裕さんも「予想をはるかに上回る売れ行き」と驚きを隠せない。

近畿ローソン支社によると、大阪ラーメンは2府4県の約1900店舗で取り扱われており、通常の新商品と比べ、2倍以上の売れ行き。同支社近畿商品部マーチャンダイザー(MD)、奥西真名さんは「カップラーメンでは珍しい甘辛感が関西人に受けており、リピーターも多い」と話す。コンビニ最大手、セブン-イレブン・ジャパンでも、関西地区の店舗で売り上げを伸ばしており、「ナショナルブランド商品の中では特に売れ筋」(広報センター)という。

一方、関西を中心に東京や宮崎、岡山など全国87店舗でスーパーを展開する「イズミヤ」では、用意した約1万5千食がほぼ完売。この1週間に販売されたカップ麺の中で最も多く売れており、在庫もほぼなくなった。イズミヤ広報室の三藤和子さんは「正直あり得ない数字。他メーカーの定番カップ麺よりもはるかに売れており、メーカーにも追加注文しているが、なかなか入荷できない状態」と驚く。

エースコックによると、同社新商品の中でも異例の売れ行きをみせており、松山さんは「現在、供給体制の強化に努めています。みなさまから大変ご好評をいただき、感謝しています」と話している。

200pxtarotokyo20110213tokyotower01m・・・以上のように市場は「大阪ラーメン」の高評価にあるようで、販売開始から1カ月での反響はすごぶるいいみたいである。もともと1958年(昭和33年)に東京タワーを建てたのが、「大阪の新聞王」と言われた当時の産業経済新聞社・関西テレビ放送・大阪放送(ラジオ大阪)の社長を務めた前田久吉で、今でも産経新聞社内では「東京タワー」とは呼ばず、「あれは“大阪タワー”なんや」と言う者もいる。今回はテレビ塔ではないが、“大阪ラーメン”を新聞社が手掛けると言う大それたことを始めたものだ。当然、この情報は新聞を読んで知っていただけでなく、昔から取り引きをしている手前、新聞社の記者や営業マンからもこの話は聞いている。と言うことでものは試しと最寄りのコンビニで「大阪ラーメン」をゲットしてみた。

まずパッケージに産経新聞の紙面(一面)がロゴも鮮やかにカップを彩る。これは学生時代に弁当を持っていく際に包まれていた新聞紙を思い出す(笑)。まさに新聞紙に包まれたラーメンと言うイメージで、記事ならぬラーメン生地が中に入っている。ここから食するにあたっては熱湯を注ぎ3分待つと言うのは他のカップ麺と変わらずであり、そして濃縮された醤油エキスの小袋を切って液を流し込めば完成である。見た目は懐かしい中華そばを思い出し、また黒々とした醤油ベースの出汁の色は“和歌山ラーメン”のような視覚もある。新聞社の社会部が作ったカップラーメン、そのお味は・・・確かに甘辛ラーメンとなっている。ときたま口内で麺とたわむれるとろろ昆布にも出会い、うどんを入れてもみたくなるが、いやいやこれはラーメンだったというように立派なカップ麺となっている。

Imgp0005_480x640冒頭にも書いたが「B-1グランプリ」の言う地域活性化に貢献するB級グルメの祭典のように、このカップ麺「大阪ラーメン」はどのように地域に貢献するかが少々疑問が残る。実際に大阪府下におけるラーメン屋や飲食店で“大阪ラーメン”の名店リストが作られ、そこに出掛ければ食べられるというのであれば、地域に人の流動があり、また名物ラーメンを食べたさに挙って大阪を訪れ、経済効果やシナジー効果まで生み出す場合もあるが、単にスーパーやコンビニで発売しているだけでは新商品の“大阪ラーメン”が売られているに過ぎない。またカップに印刷された巻頭紙面(号外版)風の部分では、新聞社のPRであり、新聞社なのにラーメン部があり、おもろい企画としてラーメン開発がなされたという好奇心から手に取る客が多いと思える。このカップ麺そのものの定番は少なく、定着させることが“大阪ラーメン”としての存在意義でもあり、単にニュースとしてパッと消えないことを願うのみである。私的には、この「大阪ラーメン」は気に入った味であり、質・量・内容ともに大変満足している。

2011年12月 1日 (木)

多武峰の紅葉は今が見ごろ

Imgp0053_640x480紅葉深まる多武峰を背に広がる談山神社を訪れた。ここにも多くの観光客が押し寄せ、この時期は桜のシーズンとはまた違った行楽シーズンとなっている!
11月も終わろうとする平日に奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある談山神社まで出かけた。大和の猿楽を研究する大学教授のお供ではあるが、このシーズンの多武峰の紅葉は絶景であり、企画三昧が続いた11月の息抜きとしても最適な骨休めでもある。奈良市内(午前10時)から車で45分ほど南に走り、桜井市の三輪神社(大神神社)から安倍文殊堂を越えて山間に入り、紅葉に包まれたところどころ対向車が行き交うのもやっとの道や、さらに舗装されて綺麗になった道路を走り、午前11時には談山神社の駐車場に到着。

よく確かめないと駐車場も複数あることが多く、談山神社からかなり離れた駐車場に止めて歩く方で疲れることも多々ある。よく人気の神社に初詣に出かけ、臨時駐車場の呼び込みにより誘導されるまま、車を駐車した後、そこが神社の入口から遠く離れた場所にあることも多く、次々と歩くうちに出てくる駐車場にが~ん、唖然とさせられたことは多いのではないだろうか。そこで幾つかの駐車場をやり過ごして最終と思われた駐車場も、車から降りて談山神社の参道を歩くうちに、もう一つの参拝者用駐車場を見つけ、「ハァ~」とため息をつくことになった。やはり慣れたところの社寺仏閣でないと、土地勘がないだけに判断ミスを犯すこととなる。

Imgp0067_640x474Imgp0024_474x640この談山神社は奈良盆地の南東部に位置する桜井市にあり、それも市域の南にひときわ高くのびやかに連なる多武峰にある。太古から連綿と息づく森には温帯と寒帯にまたがる貴重な植生が見られ、山頂付近には本州南限といわれるブナの林も育つ。談山神社は、藤原鎌足を祭神とする古社である。鎌足は645年、中大兄皇子と共に「乙巳(いっし)の変」を起こして、蘇我氏を滅ぼして政治の刷新を推し進めた。二人が国の将来を談(かた)らった地という本殿背後の山は談山(かたらいやま)と呼ばれ、社号の由来となっている。

鎌足は天智8年(669)に世を去り、摂津国阿威山(あいやま=大阪府茨木市)に葬られたが、天武7年(678)、長男の定慧(じょうえ)が遺骨を移し、十三重塔を建てて再葬、翌年には塔の南に講堂を建て妙楽寺とした。さらに大宝元年(701)、塔の東に聖霊院(しょうりょういん=現在の本殿)が建てられ鎌足の木造が祀られた。また延長4年(926)には、八百万の神を祀る日本最古の総社が建てられ、後醍醐天皇から「談峰大権現(だんぽうだいごんげん)」の神号も賜った。中世には様々な戦火や争乱に会い、そして明治2年(1869)、神仏分離令を受けて一山は談山神社となったが、寺院としての信仰や慣習は廃仏毀釈のあおりをうけてもなお守られ、独特な祭祀の姿を今に伝えている。

Imgp0035_640x453確かに神社とは言うものの寺院としての建物も多く、神仏習合の古社であることが見て取れる。正面入口で入山拝観料(大人500円/小学生250円)を支払い、まずは本殿に通じる階段が目の前に広がる。よく昔の青春ドラマなどで、このような石段を蛙飛びで登ったり(いやいや絶対に頭から落ちるちゅうねん!)、また駆け足で登って降りると言ったセッカン、いや特訓があるが、観光客の多くは高齢者であり、手すりを持ちながら恐る恐る登っていた。一緒に出掛けた教授が「ここの実際の信仰対象はこれだろうか」とすんなり階段を上る前に横道に逸れ、龍の磐座(龍神社)へと迂回をした。そのコースは後で分かったのだが“足の弱い人コース”と呼ばれ140段の石段を登らずに、緩やかな小路を通り、けまりの庭を抜け、気付けば本殿へとたどり着くのである。(やるじゃないですか・・・大助かりですわ!)

教授の頭の中は、今回の談山神社の訪問理由である“大和猿楽”に関する手がかりを探すことに神経を集中しているが、こちらは行き交う多くの観光客にも目が行くし、さらにはその胸元のバッヂにも目が行く。どこから来た、またどこのツーリストの観光客と、日頃お世話になる旅行会社による団体であればと、チェックに抜け目がない。確か上の大型バス駐車場にはTバス会社、Nバス会社等も停車しており、ここでもフロントガラスの上に貼りだされたツアーの主催者でもある旅行会社のロゴマークを確認している。名古屋から来ているJTBや大阪からのクラブツーリズム等の団体が、紅葉シーズンの多武峰・吉野ツアーとして訪れていることも分かった。とにかく仕事柄、自らも観光地を探索しつつ、そこでの観光客の年齢層、発地方面を自然とリサーチしているようだ。実際にもう少し時間があれば、その参道にあるみやげもの屋を覗き、売れ筋の商品などをチェックするのだが、今回は別件でのお供であり、またの機会にしよう。

Imgp0042_640x479やはり談山神社で目に止まるのが「十三重塔」だろう。下から見上げれば青空も広がっており、あまり寒くはない穏やかな日差しを浴び、くしゃみが出てきた。とは言うものの、それほど高い建物ではなく、横で教授が実際に十三重塔だろうかと疑うように屋根を数えていた。この辺りは、この十三重塔を入れてバックの紅葉とのアングルを求めて多くのアマチュアカメラマンが三脚を立ててシャッターを切っていた。多くの観光客も行き交う中で、いっぱいに三脚の足を広げ、我が物顔に連写するカメラマンが多く、そのシャッターチャンスの際に、横切るように少々性悪に行き来してみた(笑)、きっと自分のニット帽が朱色の十三重塔にかぶさりながら、得体のしれないもののけでも撮ったように写真が出来ることだろう。まぁ今は、大半がデジカメだからいらんもんは消すだろうが・・・(笑)

最後にたどり着いた楼門、拝殿、本殿と進むが、特に本殿は平成17年に始まった境内社殿修復工事のために工事用シートが被せられ、残念ながら中を見ることは適わなかった。ただ拝殿に上がると、そこにはいくつかの宝物展示がされており、有名な蘇我入鹿誅戮図(下の写真)があり、これを見た時に「そうそう、ここに来たことあった」と今頃になって思い出した。室生寺、長谷寺、松尾寺、飛鳥寺、信貴山・・などを結構回っているので、頭の中がごっちゃになることも多く、一度訪れていながら全く忘れていて、初めて訪れているように勘違いすることも少なくない。(結構、ボケをかましてまんな!)

Imgp0048_640x480そんなことを考えている間にも教授は、黙々とお目当ての資料を探している。こちらは拝殿から南側に解き放たれた扉と回廊から見える下界に広がる紅葉の風景を写真に収めていた。ここにもアマチュアカメラマンが多く陣取り、また観光客もスナップ写真を狙うアングルとして人が鈴なりになって撮影に暇がない。京都の清水寺も同じだが、この行楽シーズン、また紅葉の美しい季節は、日本人の心底にある美意識が騒ぎ立て、いてもたってもおられずカメラに納めたくなるのだろう。・・・と、観光客の雑踏の中で、談山神社の秋の深まりを感じている間も教授の方は目的の資料探しを続けているようだ。ただ観光に来たわけではなく、その資料をもとに製作物(造形物)を創り出す必要があると言うので真剣そのものながら、当方は、今日の役目が車の運転であり、このあとの昼食の場、帰りのコースを考えて、深まる秋の多武峰を見上げていた。
●参考資料:『月刊 大和路 ならら11月号』(地域情報ネットワーク㈱)より一部抜粋

2011年11月30日 (水)

読書や映画の秋から冬支度へ

Hi3e0180映画『アントキノイノチ』は、吉田太一の遺品整理業エピソード集を題材に書いたさだまさしの小説が原作である。まさに映画の題材⇒小説⇒脚本⇒映画の中で、その本質が見抜けているかが分かり、どこかでボロが出ているかが分かるケースだ!
今年もスタートしたと思ったはずが、いつの間にか師走(12月)の声が聞こえ、あと1ヵ月で2011年も終わろうとしている。走馬灯のように駆け抜けた1年だと言うものの、東日本大震災や福島第一原発事故があり、政治でも菅政権から野田政権に換わり、さらに大阪では維新の会が台頭し、橋下市長、松井知事が誕生する等の激変が見て取れる。同時に円高、TPP、世界恐慌不安が絶えず付きまとい、確実に不況が高まっている感は否めない。来る2012年はパッと景気のいい話でスタートしたいものながら、本音としてはかなり厳しさを増すものと予測せざるを得ないのである。何も「2012年人類滅亡説」を信じているわけではなく、ここ数年の世界的な自然や軍備強化を図る国々の脅威を見るにつけ、どちらにしろ何が起こっても不思議ではないという時代であることは確かだ。

ただ、そんな緊急事態が起ころうとも自分としては、淡々と読書をし、好きな映画を心ゆくまで観ていたいという願望がある。最近の傾向から製作・上映される映画の多くが、原作となる小説での出版があり、まずはその小説(出版物)の高評価があって初めて映画の製作へと移行されているようにも思える。それはドラマやアニメにも言えることで、漫画やゲームのストーリーがそのまま映画の原案となり、名のある脚本家がそれをシナリオに仕上げ、映画化、ドラマ化、アニメ化を進めている。つまりは映画『犬神家の一族』を製作した角川書店⇒角川映画のように、出版の好評成績を経ての映画製作、また映画化が決定したことで出版の売り上げを促進する狙いもあり、本屋の店頭での販売強化を狙うというものである。

映画製作は、構想段階から原案(シナリオ)作成、ロケ地選定、スタッフ・キャストの発表~クランクアップ~先行試写会・試写会~全国ロードショーと、最短でも1年間余りの月日をかけるが、映画の興行が終わった後でも海外配給~レンタルDVD~テレビ放映~DVD発売等と短期的に見ても2年半以上の事業化(ビジネスモデル)がスケジュールとして見て取れる。この映画づくりの出資(投資)や支援・協力に様々な業種の企業・団体、さらには国や自治体が参画するのも、このプロモーション機会が幾重にも準備されていることでも分かるが、単にテレビCFを作っただけでは媒体露出の期間を過ぎれば終わるが、映画はそれで終わってしまうのではないことが分かる。海外の有名な賞を獲得し、レッドカーペットを踏みしめて歩く監督や主演俳優は歩く広告塔でもあり、本や映画、DVDが売れると共に、大化けすれば普及の名作として映画史に残ることでの宣伝効果が費用対効果以上のものになるの事実である。ただ、それは成功した映画の話ではあるが・・・。

以上のように映画と原作(本)は切っても切れない間柄になりつつあり、毎月、新刊として発売される小説(単行本、文庫本等)から映画化になり得るとも言えるもので、読書をしつつ、その映画化や配役、ロケ地の選定、特撮等の必要性などを考えるのも面白いと言える。どちらにしろ映画が先か、読書が先かの選択肢があるのも最近の傾向である。読書をした本が映画化されれば観てみたいと思うのは世の常で、実際に映画館でその作品を観て納得し、また自身の空想、妄想以上の世界観がよく描けていたと言う映画はそれほど多くないというのが本音だろう。ひどい言い方をすれば自身の本を読み進む中でのイマジネーションと、映画での各シーンで登場するイマジネーションから来る演出・美術・音楽、そして俳優の演技や配役までにおいて満足いくものは少ないからだ。だいたいが「よく描けた方だ」と妥協をしているのが本当だろう。

「じゃーお前が監督になって映画を作れよ」と言われても、自身のイマジネーションを映画化するのは物理的に、また資金的に無理なもの、特にSFやミステリー等は、かなり難しいと思える。少々発想がひんまがり、無尽蔵に地球の果てまで行って、帰ってくるぐらいのアホさ加減で捉えているのだから(笑)。まぁ、そのことで1冊の本を読むにあたっては一般の方より時間もかかるし、仕事柄で笑い話になるだろうが、小説を読みながらのそのセンテンスの選び方、さらに修飾語や敬語、方言までもチェックし、ひどい時は誤字、脱字などがないかと校正している自分に気付き、おもわず苦笑いをしてしまう。小説も映画も、エンターテインメントとして楽しめばいいものの、コンサートやイベント等を見に行った場合もそうだが、その裏方の仕事ぶりがどこかで気にしていることも事実で、自分がこの現場を任されれば、こう演出するのに、また流れ(プログラム)としても、この方が断然面白くなうのにとアホがアホな考えを妄想、空想してしまう。どうみても、ここまでくれば病気だろうが、どうも死ぬまで治りそうにないだろう(笑)

001_480x640今年の最初に、年内に250冊の単行本、文庫本の本を読む目標を定めたが、この1ヵ月を残す時期になってもまだ50冊ほどを読んだに過ぎず、あとは仕事関係の資料となる書籍・雑誌類やWEBデータは山のように読破しているものの、とんと読書は進まなかった。そこで12月の声を聞き出す時期になって、重い腰を上げて一気に追い込みを賭けようと言うものである。映画鑑賞では1日にコンシネに朝から夜間まで滞在し、そこで3~4本の映画の梯子をすることがよくあるが、読書に関しても梯子、同時に複数冊を読むこともある。確かに複数の場合、映画を観た後、読書をした後、頭の中が混乱する場合もあるが、記憶に残っているストーリー、エピソード、名シーン、セリフなどは、やはり優れた作品ばかりで、あまりの愚作は他の秀作に消され、影を薄くしている場合が多く、複数を同時に観て、読んだところで数撃っちゃ当たるほどの世界でもある。

さて、最近読んだ本を紹介すると・・・軽めのホラー&ミステリーの『チヨ子』(宮部みゆき/光文社文庫)、すでに映画化が決定した孤独な仲間による詐欺集団と最後のどんでんが魅力の『カラスの親指』(道尾秀介/講談社文庫)、続いてつい最近読んだ新感覚ホラーと言える短編集『穴らしきものに入る』(国広正人/角川ホラー文庫)、もっとも和むと共に心がほっこりする冬向きの家族小説シリーズ最新刊『ほのかなひかり』(森浩美/角川文庫)、そして、現在、並行して読んでいる最中の新刊『明日の話はしない』(幻冬舎文庫)、『カエルの子は』(峰月皓/メディアワークス文庫)であり、ある程度の本の厚み(約250頁前後)と読みやすい大きさの文字数、行間・字間、「結構うるさいぞ!」と言われそうだが、ミリオンセラーになる書籍にはそれ相応の理由があると言えるだろう。短編が好きなのは、長編の場合、あと何ページと後ろを繰ってしまい、最後は終わりが気になりだせばおちおち読書でもなくなり、たらたらと面白おかしくもない長文では読む気が失せると言える。そうそう、このブログのように、って誰や言うてんのん。

1a8fc0e120024そして、前々から興味があり、面白い隙間産業として注目していた業種の遺品整理業者を描いた本『遺品整理屋は見た!!』(吉田太一/幻冬舎文庫)は、高齢社会及び核家族、単身世帯の増加、自死や孤独死が身につまされる世代層には確実に読めば分かる正しい老後の過ごし方、生き方が書かれている。遺品整理などはコミュニティーが盛んで、家や親戚づきあいそのものが存在した頃の話のように、単身者で突然死んだ場合、借家であれば大家さんが困惑し、また一人息子・娘の場合は、その遺品整理における労力や費やす時間を考えれば、業者にお金を渡して対応してもらった方がどんなに気楽で、その他のことができるかもしれないという現代的な思考、思想を反映した新規ビジネスと言える。

また単身者の死は、病院で亡くなった場合ばかりではなく、自宅で急に疾病から来る死や、また自身が思い余って死を決意した自死(自殺)も多く、日ごろから親戚・知人、近所づきあい等の交流がなければ、持ち家などでの死亡が見つかるまで1ヵ月以上、場合によっては白骨化された状態で死体が発見される場合もある。季節的にこれからの冬時期は死後の状態もそんなにえぐいものではないが、夏場の猛暑の中で死んだ場合、その遺体の状況は見るも無残な状況にあり、胃酸が自ら胃や内臓を溶かし、体液が身体から流れだし、血管内の腐敗が進み、浮腫むと言うよりも膨張した身体、顔つきとなり、それは身内すら死者の確認ができないほどだそうだ。そして何よりも死臭が想像を絶するきつい臭いで、隣りをはじめご近所中に「ここで人が死んでます」と知らしめているようなものらしい。そんな孤独死・自死の遺体があった住まいなどに入り、その遺品を片付けるなどはやはり身内ほどつらいつらいものはなく、やはりお金を支払っても業者に頼みたいと言うニーズがあるのも事実だ。

Imgp0070_479x640_2この遺品整理業なる業種が生まれたのは、まだ10年程と言われているが、今後の団塊世代や現況の単身世帯(独身者)たちが老後を過ごす場合にも、また若いから大丈夫と思っていても突然死もあり、引きこもりやニート的な御仁であれば誰も見つけてはくれず、死後数か月を過ぎていたと言うこともあり得る。遺品整理とは、故人が残した品(遺品)を整理することで、遺品処理、遺品処分とも言われる。それらには故人のみではなく遺族にも大切な品々があり、その対応を決める上でやはり遺族、3親等までが財産分与の対象ながら、その3親等の身内がいなければ、ある日突然電話が鳴り、すごく遠い親戚と言うだけで話が持ち込まれるケースもあるそうだ。もし、その遺品自体がすごく高価で、金品等も多く含まれる場合もあるだろうが、逆に借金と言った遺産もあり、遺産放棄をしなければとんでもない疫病神を受け取ることにもなる。死んだ本人はただ一人で暮らし、だれにも迷惑を掛けずに、そっと死にたいと思ってのことだが、現代の死はとんでもなくまわりの者に迷惑がかかることも知っておかなければならない。詳細な遺品整理業の話は次回にするとして、ここからこの書籍が映画化へと進む話を最後に書こうと思う。

この遺品整理業者(キーパーズ・社長、吉田太一)の著書を読んで、それに感動したさだまさしが書いた物語が「アントキノイノチ」であり、それを原作に映画化され、現在封切られている岡田将生、榮倉奈々主演の映画『アントキノイノチ』が作られた。あくまでも現場の声を集めた吉田太一著『遺品整理屋は見た!!』は、遺品整理そのものの現場で起こった実話をもとに書かれているが、その現場を面白いと興味本位で書いたさだましさの小説、さらに映画化をした『アントキノイノチ』はどうも演出や脚色部分のウェイトが大きく、何か違う世界の話になっている。実際に映画館で映画『アントキノイノチ』を観てもきたが、吉田太一著『遺品整理屋は見た!!』を読んで、頭に描いた遺品整理の現場は、映画の中で描かれているものとは、その美観や内心の葛藤は違うだろうと違和感を感じたのが本音である。顔の良い岡田、榮倉が演技の中で見せる死者への供養をする姿勢などもどこか希薄に映ってしまい、『アントキノイノチ』というタイトルが最後はダジャレでのオチというようなクライマックスに使われるのだが、さだまさしらしいと言えばらしいが、あまりに冗談が過ぎる小説、映画の終わり方に唖然とした。

まだ映画も観ておらず、また原作を読んでいない方々もいるので、ここはどうだとか、ここは違うなどと書くことはせず、原作を読んだ際のイメージや思いが映画づくりにおいて、その脚本家や製作者の意図により曲げられ続けることはとても納得できるものじゃない。自身の空想や妄想では、想像もつかない世界観と実際のビジュアルを映画は魅せてくれるのなら興行としてお金を払うのも厭わないが、単に小説の題材、映画の題材として面白半分に、なんら力量が備わっていないのに自己完結で作ろうと言うだけではお粗末すぎる。あえて映画化をして見せるほどの原作・脚本になっていたかと言うと映画『アントキノイノチ』は、命そのものを小説、映画の中で十分に理解し、伝えきっていないと言える。ドキュメンタリーとしても希薄であり、ましてやご都合主義での話の展開は、映画ではなく深夜のテレビドラマで十分だったようにも思える。今日はかなり辛口ながら、原作の本と映画について書いた。この後も、読書、読書・・・年末まで頑張って読もう!(笑)

2011年11月23日 (水)

中原淳一の世界観がこそばゆい!

Imgp0002_640x476芸術の秋、そして「勤労感謝の日」の今日は、少し自分へのご褒美として趣味に少々投資するのもいいかも・・・。まぁ、大王製紙前会長ほどにのめり込んではダメだけど!
結構な蒐集家である。というか、何でも、どんなものでも潔く捨てられずに持っていたい性格で、自室の押し入れには多くの趣味や仕事に関する過去のMy遺産が残っている。そのため家族からはぼやかれ、またそれらを邪魔扱いされてもいる。万一、私が他界でもすればきっとそれらはなんら価値もないものとしてゴミにて捨てられるか、または二束三文の値をつけられてリサイクルショップにでも売られるのがオチである。但し、それらの品々を目ぶみしたりせず、その価値観も考えないままに大きなゴミ袋に入れられ、マンションのゴミ置き場に並べられているに違いない。

自身の書いた大量の企画書、マニュアル、台本、原稿用紙などは、データ保管がされていない紙にプリントされたものばかりがファイル数十冊に入れられ、これが押し入れや納戸を占拠し、家族の衣服や季節ごとの生活品すらも収入する場所もなく、かなり疎んじられている。しかし、企画を書いたりすることは仕事ながら、そこに全神経を向けるあまりに真っ当な趣味もないことに気付き、ここ数年は古書や引き札、古い写真集や絵葉書を買い漁っており、家族には秘密にしながらも自身の唯一の楽しみとして小遣いを使って購入している。初めは「こんなんがあるんや」とネットオークションや古本屋、骨董屋で見つけはするものの、気になりだせば臆することなく即座に買っている自分に驚く。「これは自分が持つべきもの」と思えてならず、とはいうもののどこかで仕事ともリンクさせながら、その趣味の対象物を手に入れているのである。

Imgp0016_640x480今回は一度古本屋で見つけたものながら、「別にいらんわな」と知らんぷりをしていたが、毎度、毎度にその書店を訪れる度に、いつもの棚のいつものスペースにそっと差し込まれた画集は、気になりだしたらどうすることもできない。人との交際に対しても同じことで、そこで機嫌よくか、居心地が悪くか、とにかく別なる世界を暮らす人がいた場合、それはそれで自分とは無関係なままにいればいいものを、どうも仕事やプライベートでも接点を作りたくなってしまう人がいるものである。

お節介という言葉でもなく、縁(えん)というか、勝手に鎖縁とか思いだしてつながろうとする。それは実際に良い方向に動き出す場合や、逆にとんでもない方向に走り出す場合もある。じっとそのままにしておけば良かったと後悔する人もいるが、自分としてはいい経験が出来た、これも人生の中で通るべき道だったとだとも言える。ただ、それを客観的に見ている者は、そうとは捉えず、それって余計な寄り道であるとか、無駄なものを背負い込んだ、買い込んだと思うのかも知れない。要するに蒐集家も同じことで、別に自分のところにその物がなくても誰も困らないものを、自分が何とかしなければと頑張って手に入れただけなのかもしれない。

と言うことで(何なんやこの前振りの長いこと・・・)、いつもの古本屋で購入したのが『中原淳一画集』『中原淳一画集第二集』の初版本である。中原淳一は、香川県生まれで徳島市に育ち、1913年(大正2年)2月16日~1983年(昭和58年)4月19日の生涯を通じて、画家、服装美術家、出版者と多岐に渡って活躍した人物である。東京の私立、日本美術学校を卒業し、1932年(昭和7年)に開いた創作人形展が縁で『少女の友』の挿絵画家となり、昭和10年代には叙情画家として、竹久夢二(たけひさ ゆめじ)、蕗谷虹児(ふきたに こうじ)を継ぐ少女向け挿絵の第一人者となった。第二次世界大戦後まもなく少女雑誌『ひまわり』と女性雑誌『それいゆ』を創刊し、経営、編集、挿絵、服装美術などに手腕を発揮した。しかし59年(昭和34年)に心臓病で倒れ、以後は大きな仕事ができず、70歳で静養地の千葉県館山に没した。夫人は元タカラジェンヌで女優の葦原邦子(あしはら くにこ)さんである。

Imgp0006_473x640Imgp0015_480x640中原淳一の著書は、『名作絵物語』(1955)、『七人のお姫さま』(1968)等と多数あるが、その中で中原作品を凝縮し、そこに詰め込んだのが『中原淳一画集』全二冊(1975年、1977年)であり、今回ご紹介するのもその二冊の画集である。昭和50年(1975)に初めての画集として講談社から出版された。当時の淳一は療養中であったにも関わらず、この画集の為の装丁・レイアウトのみならず、なんと全編にわたり文章を執筆していて、ファン必読の貴重なる画集となっている。ここで、画集の「第二集」の帯に描かれた淳一の“「第二集」に寄せて”を下記に記載する・・・

●講談社から、画集を出してみないかとおすすめがあったとき、とんでもない、と私は思いました。雑誌の仕事というものは、そのときそのときの時代によってのみいいことであって、時を過ぎて見るものではないと思っていたので、はじめのうちは、その気にまったくなりませんでした。それでも、それが、「中原淳一画集」(第一集)として出て、日本図書館協会選定図書にも選ばれたと聞き、驚いています。
 第一集のご感想のお便りを多くの方々からいただいてみると、私の初期の絵がないものはすごく寂しい、ぜひ初期のものをあつめた画集を出してほしい、というお便りが多かったので、第二集を出す気はないかとのおすすめにしたがい、この「第二集」を出すことになりました。


Imgp0017_640x471つまりはこの画集二冊は、中原淳一が生前の頃、自らが編集に携わり、また自らで自身の絵を厳選し、画集にまとめたものだけに希少価値があるわけだ。確かに私がここ数年で興味や関心を抱く昭和初期・戦時中・戦後の挿絵、ファッション関連の絵図等の画家、イラストレーターの中、中原淳一をはじめ竹久夢二、蕗谷虹児、須藤重、富永健太郎、松田富僑、高畠華宵、藤井千秋、藤田ミラノの中にあっても戦前・戦中・戦後の少女や女性たちの多くの支持を得ていたのは中原淳一であることは確かである。

今年の夏に他界した義理母の遺品を整理していた時、中学校の卒業時に書かれた同級生からのサイン帳が出てきた。色あせたノートの中に、いつの時代にもマンガやイラスト好きな者たちがいるもので、昭和9年生まれの義理母の少女時代はやはり中原淳一のイラストや挿絵に魅了された世代と言うのがよく分かる。現在、NHKも朝の連続テレビ小説『カーネーション』においても同時期を生きた洋裁師・小篠綾子の生涯を展開中で、着物から洋服にファッションが大きな転換期を迎えた時代にあって、中原淳一が描くお洒落で、品格のある図柄は当時にはまだ少なかったファッション雑誌としての位置にあったのだろう。

Imgp0013_640x480_2このブログの最後はやはり中原淳一のメッセージとでも言えるポエムタッチの文章を書き添えようと思う。絵画やイラストだけが長けていたわけでもなく、このセンテンスの言葉選びもまた非凡な才能を表している・・・


もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。

もしこの世の中に「色」がなかったら、
人々の人生観まで変わっていたかもしれない。

もしこの世の中に「信じる」ことがなかったら、
一日として安心してはいられない。

もしこの世の中に「思いやり」がなかったら、
淋しくて、とても生きてはいられない。

もしこの世の中に「小鳥」が歌わなかったら、
人は微笑むことを知らなかったかもしれない。

もしこの世の中に「音楽」がなかったら、
このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。

もしこの世の中に「詩」がなかったら、
人は美しい言葉も知らないままで死んでいく。

もしこの世の中に「愛する心」がなかったら、
人間はだれもが孤独です。


・・・「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」より抜粋)

最後になるが『中原淳一画集』の復刻版(新装版/講談社)が、なんと5,250円(税込)で今年発売されているそうだ。折角の画集も古本で少し値が張ったものを購入した自分は、これってどうなの???と思っていることも事実だ(笑)!